カテゴリー: 逍雲夜話

  • ブログ、サボってしまいました。言い訳になりますが、6月は、台湾とインドネシアに行ってまして、ちょっとだけ忙しかったのです。ジャカルタで仕事をしてみたいと思うようになったのが今年に入ってからですが、月に一度はジャカルタへ行かねば、と思っております。

     

    僕の場合はアジア限定ではありますが、いろんな国へ行ってる内に、ふと湧いて来るのが、「日本人ってどういう国民なんだろう?」という、疑問でもないような疑問です。そして、次に「国ってなんだろう?」という、これはもう自分の手には負えない哲学的な問いです。二番目の問いはさておき、最初の問いは、海外で外国の人と話をする時、特に一緒に仕事をしようとする場合には、必ず何らかの答えを用意しておかねばならないもののようです。一緒に仕事をするときには、お互いに理解することを要しますが、理解は、自分と相手の違いを知ることから始まるようです。まず、自分の国を知ってることです。そして、相手の国あるいはその国の人を理解することです。これがないと、その国でその国の人を相手とするビジネスがうまくいくはずがないでしょう。海外ビジネスで失敗する人は、このことに対する認識不足あるいは誤認識が多いのだと思います。

     

    このたび、ジャカルタで20年以上暮らしている日本人の方のお話を聞く機会がありましたが、その方がいろんなお話の最後にされたのは、「やっぱり、よその国から来て仕事をさせていただくのだから、軒先をお借りしますというくらいの謙虚な気持ちがないとダメです」という意味のことをおっしゃったのは、特に印象的でした。わかってたはずなのですが、ここへきて印象に残ったということは、頭がわかってただけで、身に覚えがなかったのでしょうね。

     

    さて、日本の心は何か、大和心とは何か、ということですが、やはり「もののあはれ」ですかね。この「あはれ」というのは、今の時代に「あわれだ」というと「かわいそう」という意味に思われることが多いのでしょうが、もともとは間投詞で「あ~あ」という感覚を表す言葉です。心が動いたときに、思わず口をついて出てくるあの言葉です。いわゆる感動した時も、あきらめる時も、よーし頑張るぞという時も、この言葉を使ったのです。

     

    日本という国は、世界的に自然災害の多い国です。台風や地震や干ばつやその他の天災が、この国のどこかでしょっちゅう起こっています。つまり、人間の努力や工夫が一瞬にして吹っ飛んでしまうことがしょっちゅうです。そのたびに、僕たちは「あ~あ」と言って、受け流してきたのです。これは、いわゆる諦念ということではなく、受容ということに近いと思います。いたずらをした神様を、悪事をはたらいた他人を許すことと同じように、赦すことであったといえるかもしれません。日本人は、古来「悟る」ことが上手だったのかもしれません。

     

    この受け入れて赦すことを一言でいうと、「恕」ということになるのだと思います。外交が弱いと言われることも、外国の文化や文明をまねることが上手なことも、国内にたいへんなことが起こったときに大騒ぎしないことも、この「恕」が日本人の心に植え付けられているからかもしれません。きっと、有史以来王朝が変わらずに今までを過ごしてきていることも、このためなのでしょうね。

     

    皆さん、ちょっとくらいブログさぼっても、「あ~あ」と言って「恕」してくださいね!そういえば、和田アキ子の「笑って許して」も大ヒットしたなあ。

  • 誕 生 日

    「ねえ、誕生日いつ?」なんて、誕生日というのは、気軽に話題にのぼります。僕の場合は、1961年(昭和36年)8月17日です。この日の何時に生まれたのか、遠い昔にお袋から聞いたことはあると思うのですが、忘れてしまいました。

     

    1961年は、辛丑(かのとうし)の年で、皇紀で言うと2621年です。この年の1月、ジョン・F・ケネディがアメリカ大統領に就任し、4月には人類史上初の有人衛星であるソ連宇宙船ボストーク1号がガガーリンを乗せて地球一周に成功しました。「地球は青かった」っていう、あれです。8月に後のベルリンの壁が建設され、10月には先日亡くなった大鵬と柏戸が同時に横綱に昇進しました。同じ年の生まれには、上島竜兵、徳永英明、田原俊彦、浅野温子、エディ=マーフィー、牛島和彦、ジョージ=クルーニー、マイケル=J=フォックス、ボーイ=ジョージ、ダイアナ王妃、カール=ルイス、バラク=オバマ、杏里、石橋貴明、メグ=ライアン、ベン=ジョンソンの面々がいます。順不同で完全に個人的趣味で選んでみましたが…

     

    一方8月は、旧暦の葉月でしし座、花はひまわり、何と言っても原爆投下と終戦記念日があります。そして、8月17日生まれには、江沢民、笠谷幸生、ロバート=デニーロ、ネルソン=ピケ、ジョルジーニョ、戸田恵梨香の面々がいます。なんか激しいですね。誕生日が同じというだけで、なんか親近感を覚えるのは僕だけでしょうか? 誕生年やら誕生日が同じなら同じような運命になる占いなんて信用できない、と思ってる人!でも、同じ誕生年やら同じ誕生日の人には、なんか妙な親近感覚えませんか?

    僕は、三碧木星です。これは、前にこのブログに書きました九星気学の星ですが、簡単に自分の星がわかる方法があります。昭和生まれ年の十の位と一の位をたして、12からひきます。僕の場合は、昭和36年生れで12-(3+6)=3なので、三碧木星です。上の図で隣同士の星は相星といって、非常に相性がいいのです。一方、インドネシアの誕生日(独立記念日)は、何と1947年8月17日です。生まれ年こそ違うのですが、誕生日が同じなのです。1947年は昭和22年です。12-(2+2)=8でかの国は八白土星です。僕は三碧木星ですから、一見合わないように見えますが、心配ご無用です。僕には強い味方がいます。内田といううちの事務所のスタッフと山下さんという友人がいて、彼らは九紫火星です。彼らが僕とかの国の間に入ってくれて、そのために僕とインドネシアは大変な仲良しなのです。よかった、よかった!

  • 道草1

    だいぶブログの更新をさぼってしまいました。今回は内田君のブログの表題を借りましたが、これは借りたのではありません。盗んだのです。今回から、私のブログは、「道草」という表題で書きます。「夜話塾」は、逆に内田君に任せることにします。ある文章の表題というのは、その文章の名前みたいなもので、とっても重要なものです。表題さえ決まれば、実は文章はできあがっていると考えてもいいくらいです。更新をさぼっていたことを反省してわかったことですが、今までのブログは、あまり肩に力が入りすぎて、ブログに向かうのがいやになっていたような気がします。それで、気軽に向うには気軽な表題がいいと思ったという、これは言い訳です。道草や回り道は、気持がいいですね。なんか自分の人生を生きていると感じるのは、僕だけでしょうか?

     

    夜話塾という塾について、これまではあまり書いたことがないと思うのですが、この塾は、10年以上前から、僕の事務所が関与させていただいている顧問先の経営者の二世である若手経営者(候補?)を中心に集まっていただいて、経営について考えるという塾なのです。柱にしているのは、「二宮尊徳夜話(やわ)」という書籍です。ここから、夜話塾(よばなしじゅく)という塾の名前を採りました。今は土曜の午前にやっておりますが、当初は夜な夜ないろんな話をしておりました。日が変わることもありました。塾長は当然のことながら、この僕であり、1時間ばっかり夜話の話をして(以前は新渡戸稲造の「武士道」や佐藤一斎の「言志四録」)その後、同族経営の中小企業の経営者として必要ないろんな材料を勉強します。お陰さまで、今では同族経営の中小企業経営者の後継者が知っておかなければならないことの一応のメニューができあがりました。ありがたいことです。

     

    この夜話塾の実況中継を内田君にやってもらうことにしようと思います。よろしく!

  • 香田くんのこと

    香田くんは、僕の同級生です。そして、HELPのメンバーです。某周南市代々木公園前の某香田整形外科の某院長として、彼は日夜患者さんのために身を粉にして診察をしています。あれだけ気を遣いながら診察すると疲れるだろうに、と思うくらい一日中しゃべり続けています。彼との出会いは、社会人になってからですが、もう十数年前になります。HELPのメンバーである高校の同級生を介して知り合ったわけですが、最初から何かしら気が合いました。

     

    知り合った当初、ちょっと膝が痛くなったので、不覚にも彼の診察を受けてしまったことがありました。まだ知り合って間もない、お互いに敬語でしゃべっていたころのことです。「あのー、膝が痛むんですが…」と言うと、彼は「じゃあ、まず検査をしてみましょう」と言って、テキパキと(今考えると、ジャマくさかったので、サッサと済ませたかったのだと思います)スタッフさんに指示をしました。かなりの時間をかけていろんな検査をして、もう一度診察を受けて検査の結果を聞きました。「こりゃあ、太りすぎじゃねえ!」彼は言いました。「テメエ、そんなことは検査せんでも見りゃわかるだろうがよ!」その日から、僕は整形のことで、彼のところへ行くことはありません。風を引きそうになったときには駆け込みますが…

     

    この数十年の間、彼とはいろんなことを一緒にしてきましたが、最近、彼の医者魂を見ました。ある日曜日「骨とスジだか関節だかの日」の記念で、彼が講演をすると聞いたので、冷やかしに行ってみました。彼は、高齢者の不便を体験するグッズを身に着けて、「笑点」の音楽に乗って、若いスタッフに付き添われて登場しました。そして彼は、その場にいた人たちに「健康体操」を伝えることに見事に成功したのです。彼一流の洒落心もあるとは思いますが、老化を気にしている人たちに、ホントにこの体操をやってもらいたかったのだと思います。

     

    これ、彼のお母さんが亡くなるほんの少し前です。そして、彼は、死んだ僕の父と母の命日には必ずメールをくれます。早くにお父さんを亡くしたこともあるにせよ、人の痛みのわかる人だと思います。間違いなく彼は名医です。何か僕の命に係わることがあったら、必ず彼に相談しようと思ってます。実は、あの膝が痛くなったときも、彼が帰り際に教えてくれた「寝る前にベッドの上に寝転がってする魔法の3分間の運動」で、いつの間にか治っており、それ以来僕の膝は痛みません。

  • 再  生

    「事業の再生」と一口に言っても、そりゃたくさんのことをしなければなりません。それをするのは、他の誰でもなく、社長であるあなた自身です。事業の危機にあっては、いろんな波が押し寄せてきて、何をしなければならないかがわからなくなってしまいます。少し後ろに下がって客観的に見なきゃならない我々サポーターであっても、波に飲み込まれて、何から手をつけていいかわからないことも多々あります。また、業種や状況によって、打つべき手は千差万別です。その時に、常に戻って考えるホームポジションがあります。それは、

    • 設計図→材料集め→作業
    • 優先順位

    という基本フォームをチェックしてみる、ということです。

     

    再生が必要な危機時であっても、何も心配のない平時であっても、ほんとうはこのことは変わらないのですが、危機のときには、特に落ち着いてチェックすることが必要です。だらだらと出血(赤字を累積)しているけがは、まず止血(返済の組替)をしますが、ひどい場合は止血と同時に輸血(新規の資金調達や売上の増加)をしなければ、死んでしまいます。また、何が原因で出血しているのかの原因を突き止め、患部の見極め(GOODとBADの選別)をしなければなりません。

     

    なのですが、私はもう少し基本的な点を重視しています。どんなことをする場合でも、①設計図を描いて(本当にやらなきゃならないことの計画を紙に書いてみる)、必要な材料を集め(ヒト・モノ・カネなど自社の経営資源を思い描いてみる)、そして作業をする(人や物を動かしてみる)、ということと、②ものごとに優先順位をつける、ということをします。つまり、①何をしなければならないかを考えて、さらに、②何から手をつけるかを考える、ということです。何をしなければならないかが分からない場合は、人間は不安ばかりを感じて、先に進むことができません。また、何をすればいいのかというメニューができても、優先順位をつけなければ、人間おかしなもので、やっぱり先に進むことができません。

     

    そして基本フォームをチェックした後は、いよいよ

    • やってみる(決断と実行)

    ということです。ここは、ただただ「勇気」あるのみです。世界一の武器を持っていても、それを使う知恵や勇気がないならば、その武器は世界一のゴミにすぎません。世界一のゴミには、ホウキとチリトリで勝つことができます。自分の作った設計図に自信が持てなかったり、他にもいい設計図があるのではと疑ってみたりで、前に進めないのが一番良くありません。前に進んでみて駄目だったら、また戻って設計図を修正して別の道を進めばいいじゃないですか。

     

    • と②は経営する技術にかかわるものですが、③は経営する精神の問題です。

    経営者は、この「経営技術」と「経営精神」の両方を持つことが必要です。特に危急時には「熱き精神」が必要です。私の仕事は、設計図を作って優先順位をつけることのお手伝いをすることと、そして、決断した社長の背中をちょっとだけ押して差し上げることです。これまでの経験から、再生戦の勝負の行方は、社長がどれだけ不退転の決意をしておられるかということによるようです。そんな社長に対して、私は時として何もできないときもありますが、必ず言えることは、私が社長に寄り添っていることだけはできるということです。

  • 社   長

    私の父は、2006年の5月に75歳で他界しました。そしてまた、私自身、人生の折り返し点を確実に過ぎたと思うこともあって、近頃とくに自分はどう死んでいくのだろうかと考えます。そんなことを考えるようになってから、むしろ「生き生きと」生きることができているように思います。死を感じ、覚悟ができていれば、精一杯生きることもできるのかなとも思っています。「使命」とは、命を使うことです。何のために生まれてきたかと考えることは、実は、どう死んでいくのかと同じ意味なのかもしれません。明日死ぬことがわかれば、人は、今日をどう生きるかをいやでも考えざるを得ません。今の日本の日常には、「死」がありません。「必死」もありません。今の日本に生気がないのは、そのためかもしれません。

    父は、年足らずで少年航空兵に志願した男でした。少年航空兵というのは、特攻隊として養成される少年兵たちです。遅ればせながら、最近になって、これは実は物凄いことなのではないかと思うようになりました。戦争の是非はおくとして、誰かのために自分が犠牲になってもいいと思うこと。「無私」とは、こういうことをいうのだと思いますが、残念ながら今の私にはそういう覚悟はありません。父の場合、結局は、特攻する前に終戦を迎え、その後もさしたることもない人生を終えたのですが、その「生き様」は(酒癖が悪かったりロクでもないところもありましたが・・・)、「高潔」という言葉がピッタリくるように思います。いろんな意味で覚悟ができていたのだと思います。父だけでなく、あの時代の人たちには、高潔に生きた人が多かったように思います。

    新渡戸稲造の「武士道」にも言われておりますが、人の上に立つ「リーダー」には「ノブレス・オブリージュ」が肝要とされます。直訳すると「高貴なる義務感」とでもいうのでしょうが、これをこなれた日本語にすると「高潔」という日本語がそれにあたるのではないかと思っております。「覚悟と潔さ」というところでしょうか。危急のときにわが身を捨てること。言うは易く、行なうは難しいことです。一般の人より高く、かつ、自分自身の頭で考えた基準の義務感がないとできません。法律やそれに代表される社会的ルールは、他人が考えたものであり、かつ、最低限の社会的な決め事です。「リーダー」は、このような社会的ルールさえ守っていればいいと考えるのでは足りません。今の日本には、そういう意味での「リーダー」が少ないのだと思います。常に何かに頼り、何事か起これば責任を逃れることに汲々とするような「リーダー」が多いような気がするのです。

    さて、日本の中小企業の経営者つまり「社長」は、人の上に立つ存在です。現在の社会において真に「リーダー」と呼べる存在は、中小企業の「社長」しかいないと思っております。それは、中小企業の社長は事業に失敗したときには、丸裸にならなければならないからです。「れんたいほしょう」という物の怪によって、社長は全てを失うことになるからです。上場企業の代表者とはちょっと様子が違っているように思います。中小企業の「社長」は失敗したら全てを失い、全責任を一身で受け止めることになるのです。そうであればこそ、「社長」は、自分の会社に誇りも持ち(「自分の会社は自分の子供より可愛い」という人もいますが、このことが事業承継の最も大きな障害になることもあります)、社員たちよりも数段高い高潔さを持った自立した存在でなければならないのです。そして、私の仕事は、そんな中小企業の経営者の皆さんに寄り添い、自立を支援することだと考えております。中小企業が自立することができたら、日本の国が自立することができるものと思っております。この国において、中小企業の存在はそれだけ重いものであると私は確信しております。

    私は、今の日本をそのまま、自分の子供たちに渡すことには躊躇を覚えます。「これが、お父さんたちの築いた日本だ」と胸を張ることはできないような気がしています。日本の少子化は、こんな潜在的な感覚から起こっているのではないかとも思います。自立した国で、大きな富はなくとも、誇りをもって生きることができるのが、幸せなことだと思っております。そんな日本をわが子に残したいと願っています。ただ、そんな大それたことを私のような一市民ができるわけはありません。私には、そんな日本になるよう、只管祈り、願うことしかできません。ただ一隅を照らすつもりで、つまり、自分の身の回りでできることをするだけのことです。皆がそう思えばこの国は変わると信じて・・・ それでは、自分のできることとは何か。中小企業の経営者の自立をサポートすること、そして、父がそうであったように、覚悟ある生き様を子供たちに残してやることだと思っております。

  • 九星気学

    生来の好奇心から、これまでにいろんな私の中のファッションがありました。もちろんロックバンドもあり、格闘技もあり、陶芸も、書道も、その他自分の中での流行があり、今は、九星気学にはまっております。もともと中国の古典が好きで、これはファッションというより、ずっと続いている趣味ですが、その中国古典の中に「易経」というのがあります。「四書五経」という儒教の教科書的な書物の一つに数えられるものですが、これが、実は現在に至るまで、ちゃんとした訳本がない状況で、私の能力では到底追いつかない代物です。そこで、その易の考え方から流れ出た九星気学というものを、まずはやってみようと思っているところへ、村山幸徳先生という方に出会い、さらにそのお弟子さんにあたる方に手ほどきを受けることになりました。

     

    これが、やってみると面白い。皆さん、二黒土星とか九紫火星とか聞いたことありませんか。あれです。中国の五行を軸とする考え方ですが、一般には、占いの一つと思われているようです。しかし、易もそうですが、単なる占いではありません。詳しいことは専門書に譲るとして、僕は、九星気学は、ある人個々人の運勢を占うだけものではなく、むしろ、人間関係の妙を教えてくれているものじゃないかと思うのです。個々人の運勢もそうですが、人間関係の妙は、本来的にというか、事実問題として、ある人個人の意思や努力によってどうにかなるものじゃないような気がしています。

     

    この人間関係の妙を押さえて会社経営にあたると、思いのほかうまくいくような気がしています。チームを組ませるとき、上下関係をつけるときなど、ちょっと気にするといいかもしれません。ただ、九星気学がすべてではありませんが…

     

    職業柄からか、現代の日本という国では、人間関係に疲れてヘトヘトになっている人が多いと感じていますが、九星気学は、そんな現代人を救う重要な考え方のような気がします。もっと「ゆるく」生きていいんだよ、と教えてくれているような気がするのです。嫌いな人、合わないなと感じる人がいるとして、現代の道徳や倫理は、人を嫌うこと、好きになれないことを許しません。それで、無理に好きなふりをしたり、嫌いじゃないと思い込もうとしたり、自分の心にさえ仮面をかぶせて生活することになります。これじゃ疲れますよね。

  • 九星気学(2)

    前回の続きです。

     

    考えるに、好き嫌いというのは、人の意思を超えるものです。つまり、好き嫌いには、理由がありません。理屈ではなく、事実であり、自然現象であるからです。たとえば、好きな人を、自分の意思で嫌いになることはできませんし、なぜ好きなのか、そのすべてを説明することなんて、とっても不可能なことです。「優しいから」と答えたところで、それはすべてではありません。逆に、嫌いな人を意思の力で好きになることもできません。よく「その人のいいところを見つけ出しましょう」的なことを言う人がいますが、それにしてもやっぱり、嫌いであることを受け入れるところから始まるんじゃないでしょうか。僕は、鶏肉が嫌いなのですが、「なんで?」と聞かれるたびに困ってしまいます。理由なんてないんです。人と鶏を一緒にするな、と言ってるあなた。本当に違いますか?嫌いであるという感情が…

     

    こういう経験は、みなさん日常的にしていることだと思いますが、本来自然現象であることに理屈や理由を求め、好き嫌いの感情をもつことを許されないかのような道徳や倫理という名のルールがあったりします。しかし、安心してください。嫌いな人、合わないなと思う人がいるときに、九星気学でその人との相性を見てみると、あーら不思議、やっぱり合わないのです。つまり、「気」が合わないのです。合わないのが自然なのです。そうなると、「気」って何だということになるのですが、まさにこれが人間の知性や思考や意思といったものを超えるものなんだと思います。昔の人は、この人智を超える何物かを「気」と言ったのでしょう。そして、日本では、「空気」とも言って来ました。KYの空気読めないも、この「空気」ですよね。

     

    九星気学は、無理に、つまり人間の意思で好きにならなければならないとか、人を嫌うのはよくないことだとか考える必要はないと教えてくれているような気がします。さらに言えば、嫌いな人を嫌いだと思っていいんです。ただ、嫌いな人は嫌いな人として、受け入れればいいんです。そして、これは「愛」ということに通じるものだと思います。無理に好きになろうとすると、その人を受け入れることすらできなくなります。そして、それでも無理に好きになろうとして、それが無理だと分かった時には自分の存在を消さなくてはならなくなります。そんな不幸はありませんよね。もっと、ゆるく生きましょうよ。

     

    余計なことですが、中国の古(いにしえ)には、易をはじめとするたくさんの「人類の知恵」があるのに、今の中国はなんでああなんですかねえ?

  • 古 典(1)

    古典というと、皆さん何を思い出しますか。源氏物語の人もいれば、シェークスピアの人も、論語の人もいるかもしれません。僕はこの5年くらいは、古典ばかり読んでます。特に日本と中国の古典です。人生も折り返し地点を過ぎたと思ったころから、若い時とは読書が変わってきました。若いころは、古典も読みましたが、その時のはやりの小説や、経営書や、本屋に行って目についたもの、気になったものを片っ端から買って帰りました。読まずに「積ん読(つんどく)」で終わったものもかなりの数あります。しかし、人生も残り少ないと感じたころから、「死ぬまでに読んどきたい本」だけ読もうという思いに変わりました。「死ぬまでに何回食事ができるかわからないから、おいしいものだけ食べよう」とどなたかのお話をお聞きしたときに、これは冗談じゃないぞと思い、日常生活のいろんなものを大切にするようになったと感じています。読書もその一つです。

     

    そんなことを思い始めて、さて、俺のホントに読みたいものは何だろう、と考えたときに、こう思いました。結局本を読むということは、何かを知りたいということだと。誰かが本を書いたり、音楽を奏でたりして何かを表現するということは、何かを伝えたいということであって、本を読んだり音楽を聞くということは、その「伝えたいこと」を受け取ることでしょう。では、俺は何を知りたいのだろう、何を受け取りたいのだろう。その時も今も、「日本の心」です。日本人である自分とは一体どんな人間なんだろう、ということです。「人間とは何だろう、人間はどこから来て、どこへ行くんだろう」というテーマにも興味がありますが、これは大きすぎて死ぬまでにはわからないだろうと、あきらめました。

     

    「日本の心」は、日本人が大事にしてきたものは何かということでもあります。そこで、日本の古典と、日本に文字をもたらして日本の文化に多大な影響を与えたであろう、そして今も与え続けているであろう中国の古典を読んでみようと思ったというわけです。古典について、その内容を紹介することは、別の機会に譲るとして、古典の不思議について、今日は書きたいと思います。

     

    たとえば、「源氏物語」。平安中期を舞台にした小説で、西暦1000年ころに書かれたとされています。つまり、約1000年の時を超えて、今に読み継がれているものです。1000年の間には、戦乱もあったし、天災もあったし、政治の混乱もありました。そして、昔は印刷ができたわけでもありません。多くの人がたくさん書き写さなければ、残りません。1000年の時を超えて読み継がれて今に至るまでには、日本人の多くが、その古典を残そうとして残さなければ、残らないものです。1000年と一口に言いますが、大変な時間です。源氏物語が今の世に残っていて、現代の我々がこれを読んでいるということは、それ自体奇跡だと、僕は思うのです。古典には、これを残そうとした日本人の意思が、時空を超えた日本人の強い意思が乗り移っているといってもいいかもしれません。もっというと、時代を超えた多くの日本人の意思によって洗練されたものだけが、残る資格があって古典となりえたといえるかもしれません。

     

    また、たとえば、仏教の経典は、インドから中国を経て、これまた長い時間をかけて日本に渡来し、ずっと語り継がれ、受け入れられてきています。よその国で生まれた宗教であれ、これまでの日本人が大切にバトンタッチしてきたものだし、日本人は今もこれをこの国に残そうとしています。

     

    こういう古典を古臭いとか、今の時代には合わないとかと言って、葬り去ってしまうとしたら、それは、現代人の思い上がりに他ならないと思います。現代の日本人は大きな勘違いをして思い上がっているようです。「昔の人より今の人が優れている」「発展途上国の人より先進国の人の方が優れている」というこの二つの勘違いは今すぐにやめた方がよさそうです。むしろ、日本人がずっと大事にしてきたものを、現代人の思い上がりで、捨て去ってしまおうとしているから、今の日本は荒れてしまってるのではないかと思う今日この頃です。

  • 古 典(2)

    では、古典を読んでみて、古典から何を受け取ったかというと、「もののあはれ」とか「恕」といったものです。「日本の心」ってこんなもんかなと、今の段階では思っています。そして、リーダーに最も大事なものは「高潔=ノブレスオブリージュ」だということも古典に教わりました。これらのことについては、今までに、このブログでも書いたと思います(平成10年12月・平成12年7月)。

     

    オーナー企業の社長さんは、会社経営のいろんなことを自分一人でしなければなりません。僕は、会社を経営するためには、経営技術もさることながら、いわば、経営精神なるものが重要だと、常々考えています。経営技術というのは、いかに儲けるかということに関する知識だとか、稼いだ儲けをいかに減らさないか、つまりリスクをいかに回避し、排除するかということに関する知識のことです。だけど、これらをいかに勉強しても、これらの知識を上手に使う勇気や知恵がないと、せっかくの知識も宝の持ち腐れです。いや、世界一の武器をもっていても、それを使う勇気や知恵を併せ持っていなければ、世界一のガラクタになります。

     

    そして、経営者は孤独です。常に何かの判断をなし、何かの重大な決断を迫られて、勇気や知恵を要する局面もしばしばです。誰の助けもなく、常に迷いながら生きています。自分自身の中に何かの拠り所がほしいですよね。この拠り所が経営精神です。古典はその拠り所、経営精神の宝庫だと思います。日本資本主義の父といわれる渋沢栄一氏も論語を座右に置いていたようですし、偉大な経営者といわれる人たちの多くは、古典にその経営精神を求めています。僕は、中小企業の経営者と大企業の経営者の最も大きな違いは、経営技術にあるのではなく、この経営精神の違いにあるのではないかと思っています。

     

    今は小さな会社でも、確固とした経営精神と意思をもって会社経営にあたれば、必ず大きな会社になると思うし、逆にいかに大きな会社でも、その経営者の精神が堕落すれば、いつの日か倒産の憂き目に会うものと思います。そして、この経営精神は、その人その人で違うのが当然で、唯一絶対のものなどありません。自分だけの経営精神をもつことが大事です。経営者が自分だけの経営精神をもつことが、つまり差別化ということです。トップの頭の中が、独自でなければ、会社が差別化されることなどありえないでしょう。

     

    規制緩和後の大競争時代に至って、差別化ということがよく言われますが、経営技術の差別化の前に、まず経営精神の差別化が必要です。経営精神の差別化なしに経営技術の差別化はできないと考えてもいいでしょう。さらに、この差別化ですが、お客さんの信用を得るための差別化でなければ、何の意味もありません。何百年、いや何千年の時間を経て、地球規模の空間を超えて、人々に語り継がれ、受け入れられてきた精神や意思が古典には存在します。

     

    特に、中小のオーナー企業は、いかに儲けるかということより、いかに続けるかの方が大事だと考えているオーナー社長さんの方がはるかに多いようです。いかに続けるかということになると、いかに信用を得続けるかということになりませんか。お客さんが信用して、わが社を選んでくださる独自の経営精神を身に着けることが必要です。好みの古典を見つけて、その中から独自の経営精神を作り上げてみませんか。

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